メスを持たない日には

外科医の、寄り道

ゆきゆきて、足踏み

アイオワはもう夏も終わろうかという頃、朝と夜の風は冷たく、外では虫が鳴いている。こちらへ来て二回目の夏も、これといって特別なこともせず、ただただ日だけが流れて行った。

 

日本にいた頃は毎週のようにゴルフだの、飲み会だの、予定を入れて忙しくしていたことを思えば、この1年間はまるで修行僧のような生活を送ってきた。

 

今まで積み上げてきたキャリアを捨てて、アメリカで受験生として再起するという計画は一見順調そうに進んできたようにも見えるが、それはまさに綱渡りのような局面の連続で、精神力と忍耐力がひたすらに試される非常に厳しい道のりなのだ。

 

人間というものは、年を取るごとに自信やプライドが増し、守るべきものも増え、気が付くと随分保守的になっていくものである。判断基準がどんどんと自分の経験に寄って来て、必要のないリスクは冒さなくなり、また他人にも無関心になる。築き上げてきたものを守ることで精一杯なのである。35歳、という年齢はまさにその移行期にあると言える。自分の出来ないことと、出来そうなことの分別が付くようになる。また出来そうなことであっても、家族や、キャリアのことを考えると敢えてトライせずに、行きやすい道を選ぶというような、若い頃にはあまりすることのなかった選択をし始める。

 

それは至極当然の営みであり、そうやって人生というのは流れていくものなのであろう。若い頃の苦労は買ってでもせよとか、若いうちは色々やってみたらええ、という類の言葉も裏を返せば、年を取ってからはそういうことは簡単には出来ないぞということであり、今更になって重みが分かるのである。

 

そう考えると僕は、およそ普通の人とは逆の人生選択を始めてしまったようだ。「あ、もう大体この先の人生ってこういう風になるな」と、30を過ぎたあたりで見通しがついてしまった。勿論、親の死や自分の病気とか、いろんなイベントはあるだろうがそういうことを言ってもキリがないので、あくまで普通に生きていたら、の話である。普通が一番、というのは小さい頃からよく聞かされてきた言葉ではあるが、何となく、「あ、それっておもんないな」と心からの声がする。僕は比較的、心に正直であるから、そういう声に真面目に耳を傾けてしまった。

 

「おもろくするには、どないしたらええんやろう」

 

そう考えた時、自分のこれまでの人生にずっと影響を与えてきた「アメリカ」が段々と大きくなってきた。今、アメリカというのはどんどんヤバいことになっている。アメリカ人ですら、もうこの国はダメだと諦める人も多い。でも僕が言っているのはそういうアメリカではなくて、心の中にあった、憧れの国としてのアメリカなのだ。

 

始まりは中学生の時の修学旅行。サンフランシスコ空港から市内へと向かうバスの窓から見た、見たこともない道路網。すべてがでかい街。自由な学校、教育。明るくてポジティブな人々。テクノロジー、音楽、映画、スポーツ、、、。ここにおったら何か出来そうな、起こりそうな、いや起こしたくなる、そんな空気に溢れていた。

 

2週間の修学旅行から帰ってから、僕は変わった。さほど好きでもなかった英語にのめり込み、音楽、映画、本、とにかく英語に触れたくなった。いつ来るか分からない、その日のために、英語だけは受験が終わった後も勉強し続けた。旅行といえばアメリカになり、大学、社会人になっても何度も足を運んだー。

 

でも、僕は残念ながら、憧れだけでとりあえずアメリカに行って一旗揚げよう、というようなタイプではない。コツコツと計画的に、色んな選択を考えながら進めるタイプだ。医学部に入ったんやから、当然まっすぐ医者になったし、多くの同志たちと同様、「騙されて」外科医になった。それなりの生活もして、趣味もあって、何の不自由もない。もうこのままでもええかもわからへん。アメリカも、画面の中だけでええかもわかれへん。そういう風に思い始めていた。でも、先が見え始めたからこそ、その時点で再びアメリカの野郎が、「久しぶりやなあ」とビール片手にやってきたのだ。

 

だめだ。年寄りの与太話みたいになってきた。堂々巡りだな。

 

要するに、今、僕は自分の人生の線路を、鉄のバール一本で、無理やりぐにゃっと、線路変更しようとしている真っ最中だ。鉄が曲がるか、線路が曲がるか、正直わからへん。

 

でも、今俺が持っているバールは、その辺で拾ってきた、ただのバールやあれへん。俺が大昔に見つけて、錆びたら磨いて、曲がったら元に戻して、俺が使いやすいように、俺しか使えないように、鍛えてきたバールや。細い、ただの鉄棒に見えるかもわかれへん、そう見えることは分かっとる。わざわざ言うてくれんでも宜しい。大きなお世話や。バールが折れようが、線路が曲がろうが、おたくには何の関係もないことも、重々分かっております。毎日しんどくても、セミは鳴きやむし、コオロギは鳴き出すし、日は沈むし、芋を食ったら屁も出る。でもな、俺にとっては大事なんや。この一本の鉄で、どこまで出来るんかってことが。だからやらしてくれ。もうちょっと、頑張らしてくれ。何やったら、ちょっと水でも差し入れてくれ。どないでっか?って、声でもかけてくれ。神様も見てるんやったら、ちょっと線路、柔らかくしといてくれ。晴れの日も雨の日も、俺は立ってるから。いつもそこにおるから、サボらへんから。

 

ほんで、いつか線路が曲がったら、「あいつやりよったなあ」って、饅頭でも食いながら、静かにつぶやいてくれ。俺が曲がったら、「あいつ曲がりよったなあ」って、やっぱり饅頭でも食いながら、笑ってくれ。

 

NYからアイオワへ②

さて、前回の続きである。

私は途方に暮れた。4月18日以降、自分は「無職」になるという現実は避けられなさそうだ。それも異国の地で。

とりあえず決めなければならないのは、日本に帰るか、アメリカに残るか。それに尽きる。どちらの選択をするかによって、その後の動きは大きく変わる。

私と妻はアメリカの生活がすごく気に入っていたし、医局には最低2年と言って渡米した以上、中途半端な状態で帰るという選択肢はなかった。何より自分のできることを精一杯やったのに、このような結末になってしまったことへの悔しさが何よりも勝った。

アメリカに残るぞ。

決断に時間はかからなかった。

これを実現するためには幾つかの問題をクリアする必要があった。しかしそれらの問題をいつまでにクリアすればJ1ビザを維持できるのか。これについては現地の日本人、移民弁護士、ChatGTP、人事部などいろいろな人たちに問うてみたものの一貫した答えが得られない。

ある人は雇用関係が切れても、ビザの有効期限はパスポートに印字されている通り変わらないので大丈夫と言う。しかし別の人は、スポンサーがいなければ不法滞在になると言う。情報が錯綜する中、色々と調べたり転職を進める中で分かったことは、

① J1ビザにはDS2019が必要不可欠。

② DS2019にはスポンサーが必要である。スポンサーを失うとDS2019が無効になり、J1ビザが無効になることを意味する。

③ DS2019を持ったJ1ビザ滞在者は、SEVIS(Student and Exchange Visitor Information System)に登録されて管理される。どの施設に在籍しているのか、いつからいつまでその施設で働いているのかがデータに入っている。ビザの期間中にこのシステムへの登録から外れた場合、DS2019は無効になり、J1ビザ自体が無効になる

SEVISへは連続で登録されている必要がある。すなわち、ある場所で4/18まで在籍し、5/18までは無所属、という状態は許容されない。

SEVISが途中でterminate(登録から外れること)されると、即出国しなければいけない。結局のところSEVISがactivateの状態であることがすべての必要条件になっている。

以上を踏まえると、その時点で最も大切であったのは「一刻も早く再就職先を見つけてスポンサーになってもらってSEVISへの登録を切らさないこと」だ。

 

しかしそれは困難を極めた。ちょうどその時期はトランプがNIHへの研究資金を削減すると発表したり、その影響で研究者の解雇が進んだり、新規ポスドクの受け入れ停止などが広まっていた時分だった。他施設のアカデミアで働く知人たちにもポストがないか相談してみたものの、良い返事はなかった。

NatureやLinkedin、Indeedなどあらゆる求人サイトを日夜ネットサーフィンして、手あたり次第CVとPSを送りまくった。だがどこも返事すらない。就職氷河期だ。

焦りとは裏腹に、日はどんどん過ぎていく。もうダメかも、日本に帰ろうか、妻とはそんな話を何度もした。周りの人たちからは毎日のように大丈夫か、どうなったかと同じ質問を何度もされる。心配してくれているのは嬉しくも、放っておいてくれという気もあった。

さてここまで書いて、読者は疑問に思われるかもしれない。所属している施設内で、他のラボを紹介してもらうのが一番早いんじゃないかと。

もちろん、真っ先にそうした。事実、内定をもらったラボもあったのだ。

強権的なボスの目を恐れつつも、私の働きを認めてくれていたFacultyやラボメンバーたちがこっそりとラボを紹介してくれた。そのうちの一つのラボで、是非雇いたいと言ってくれたところがあった。しかしいよいよ契約にサインという段階を前に、突然やっぱりやめましたとのメールが来たのだった。

そのラボのボスと前ボスは同じ中国系で、研究施設内の中国人会でも深いつながりがあったので、雇用を止めるように言われたとのことだった。前ボスには推薦状も書かないと言われていたのでどこか紹介してもらう期待はしていなかったのだが、どうやら彼の目の届くところで働くことすら許されないようだ。

まるで前科者のような気分になった。

希望にあふれてアメリカに来たのが遠い昔のように感じられた。

それでも、私に手を差し伸べてくれる友人や同僚たちがいることにすごく助けられたし、自分がこの1年頑張っていたのをちゃんと評価してくれる人がいることが嬉しかった。

そうして私は何とか気持ちを強く持ち、アメリカ全土どこへでも行くという気で次なる仕事を求めて求職を続けることにした。

つづく

 

NYからアイオワへ①



戦力外通告

しばらく更新していなかったが、元気でやっている。とはいえ、今の状態に辿り着くまで随分と苦労した。やっと振り返る余裕が出来たので、少し長い話にはなるが、もし私と同じような状況になるような人がいれば少しでも参考にしてほしいという思いでこの経験についてまとめてみようと思う。

 

始まりはちょうど今から3か月前、月曜のミーティング後に突然呼び出された私はボスから「今から1か月後より先、君の居場所はない」と告げられた。「実験を続けるのも、辞めるのも勝手だが、私が君の立場なら次の職を探すことに費やすだろう。」そう彼は言った。

悔しかった。それまで色んな人にアドバイスを求め、時にはプロジェクトも変えながら試行錯誤を続けて、家にいても仮説や実験のことで頭がいっぱいで日常を楽しむ余裕もなかった。それでもモチベーションを切らさないように、マッチポイントを握られても逆転をするジョコビッチのように自分も巻き返せることを信じて、来る朝来る朝、胸を張って出来るだけフレッシュな気持ちでラボへ向かう。

寒くて暗いニューヨーク。おまけに家にはアライグマが巣食って、落ち着かない。土日も関係なく実験を続けた。

それでもポジティブなデータが出ることはなかった。

周りは口を揃えて、「お前はよくやっている。データが出ないのはお前のせいじゃない。」「ボスはいくらなんでも、ハードワークしているやつをクビにすることはない。」と声を掛けてくれた。そんな素晴らしい同僚たちに恵まれてやってきたのに、去らないといけないなんて。

私自身も自分の怠慢とは全く思っていなかったし、中ボスの指導や、ラボの研究方針について思うところもあったので納得が行かなかった。ボスの性格上、一度決めたことは曲げないのは分かっていたが、解雇事由に正当性がないとして以下の事項を根拠にHR(人事部)に訴えることにした。

・形式上はResign: 自主退職ではあるが、実際は解雇である。通常ポスドクを解雇するためには数か月前からの正式な書面での通告や、改善の指導が為されなければならないことが多いが(Webでハーバードなどの有名研究施設の規定を調べた)、全くそれらの手続がなかった。

・3年のオファーレターを貰っており、そこには解雇に関する事項の記載も一切なく、1年に一本論文を出さなければ解雇するという「決まり」は明示されていなかった。

・問題行動は一切なく、ラボ内でも極めて良好な人間関係を構築していた。

 

電話及びメールでHRの担当者にこれらの言い分を伝えた。担当者はこちら側に寄り添う姿勢を見せ、ボスと数回のミーティングを設けてくれたようだった。しかし、残念ながら結果が覆ることはなかった。

勤務していた施設はNPO企業の傘下であり、通常のアカデミアのようなポスドクのための規定を持たなかったこと、ボスが施設の副所長であり政治力を持っていること、アメリカでは制約を飛び越えた措置が行われることもしばしばあることなどが理由として考えられる。

しかし、しつこく食い下がることで様々な不利益を被るのは間違いなかった。絶望のオーラを拭えないまま、諦めて次の就職先を探すことにした。

 

そして本当の困難はここから始まることになる。ビザの問題、トランプ政策、ボスからのネガティブキャンペーン

 

つづくーーー

 

 

 

 

メスとピペットーどっちが偉いかー

少しの間更新を忘れていた。遊んでいたわけではない、逆だ。

私は4月でラボに加入してから1年になるのだが、年間一本の論文publishというノルマの達成見込みが薄かったため、だいぶとボスに詰められているのである。

まあそもそも基礎研究の論文を1年で一本仕上げるということは、かなりハードルの高いことなのだが、それをPI(Principal investigator, ラボのトップ)求められている以上やらねばならぬのである。

手術から離れたところに身を置いて初めて、我々の仕事は非常にチームワークであったことに気付かされる。「医療はチームワーク」というのは学生の頃から口酸っぱく教えられてきた概念なのであるが、解ってはいても気付いてはいない、そんなまま外科医をやって来たのである。

一方で研究者(基礎研究者)というのは基本的には自分頼みなのである。実際に自分でベンチワークをするポスドクくらいの研究者は特にだ。外科医が野球選手なら、基礎研究者はテニス選手のようなものである。実験をする時は一人ですべての工程をやるし、ミスをしたら全部自分の責任。プレーヤーは自分ひとりである。その代わり、NatureやScienceなどの一流紙に掲載されれば称賛されるのは(もちろんラボ全体もだが)First authorなのである。

この違いが、結構メンタリティに影響してくる。外科医にとって手術とは、達成して当たり前のタスクである。なぜなら成功しない手術など誰も受けないし、治療として成立しないから。つまり練習して、上手くやれば高確率で成功という報酬を手に入れることが出来るのだ。

しかし研究はそうはいかない。まずもって失敗が前提である。99回の失敗の次に1回の成功がある、そういう仕事だ。これって結構メンタルに来る。「いつか成功するかもしれない」と、「また失敗するかもしれない」の狭間で孤独な格闘をすることになる。毎日毎日手術をこなして、「成功」し続けていた自分のマインドを変えるのには結構苦労した。

そう、私は非常に愚かなことに、昔は研究するより手術をするほうがしんどいし偉大な事だと信じていた。しかし今では完全に逆に感じる。数多くのサンプル、工程から成り立つ一つの実験には数えきれないほどの「重要な局面」があり、大きな集中力が必要だ。長い間集中を保つためにはフィジカルも当然重要になってくる。そして何より、ほんの少し試薬の量を間違えたりするだけで実験全てがパーになるのである。すっごくシビアでしょう。

何が言いたいかと言うと、研究者は間違いなく過小評価されているということだ。特に日本において。科学を根底から支えているにもかかわらず、社会的地位や報酬があまりにも低すぎる。国は、金儲けに走るしょうもない医者を育てることに投資するくらいなら、研究者にもっともっと投資をしてもいいと思う。

さあ、実験に戻ろうか。

ここが変だよアメリカ人

ラクターとシャベルカーのある本格的な農場付の別荘でゆっくり過ごした。

Thanksgivingが終わった。アメリカ人にとっての正月みたいな祝日。誰が誰にThanksをGiveするのかと疑問に思って調べると、もともとはピルグリム・ファーザーズが先住民と一緒に豊作に感謝して宴を開いたことが起源だとか。

普段「いただきます」を言わないアメリカ人を心配していたら、この日にまとめて感謝するということだったようだ。安心安心。

さて愛すべきアメリカ人だが、いくつか何でやねんと突っ込みたくなる習慣を持っている。

たとえば、便座冷たい問題。どう考えたって冷たいより暖かい方がいいに決まっているし、どうせ彼らだって真冬の寒い日に便座におケツが着陸する時には「きゃっ」とか言ってかわいい声が出ちゃってるに違いないんだから。TeslaとかGoogleとかものすごいテクノロジーを生み出す会社があるくせに、日本人が便座を温めたくらいで驚いているのはどういうことだろう。

それともなんだ、奴らの臀部には感覚神経が通っていないのか?あるいは発達した臀部の筋肉が自家発電してぬるま湯くらいの温度に保たれているのか?いやいくらBMI40超の肥満でも皮膚の感覚は同じはずなのだが。あるいは、長年の狩猟採集生活の結果、欧米人たちは寒い・暑いなどの感覚をニュートラル化する中和物質が中枢神経サイドでいい仕事をしちゃっているのか?いやそれはない、日本人からすれば30℃くらいの「ちょっと涼しい」夏の良い天気の日には「暑すぎる」と言っては効きの悪いエアコンに文句を言っていたぞ。謎は深まるばかりだ。

それからもう一つ、これは素晴らしい習慣だと思うのだが駐車場に頭から突っ込むのが多数派であること。アメリカに来て最初にぶち当たるカルチャーショックなのだけれど、スーパーでも職場の駐車場でも皆頭からである。たまにバックで入れている車もあるのだが、あれは自分のアイデンティティアピールなのか?LGBTQのBはBackとでも言わんばかりである。まあでもこれについては、単に面倒くさがりなだけだと思う。だって店に何か買いに行くときにワクワクしているのに、一旦過ぎ去ってまたバックで戻るなんて嫌だもん。そのままババっと入れて、あとは家に帰るだけの時にゆっくりバックして出す方がええやんか。という言い分が聞こえてきそうである。日本人的には、帰りに出る時に出やすいから、最初はちょっと手間だがバックで停めようという感覚ではなかろうか。うーん、面白い。

最後に最近発見したこと。降雪地帯でも頑としてスタッドレスタイヤを履かない。Thanksgivingでお泊りをしに行ったアメリカ人ファミリーはマサチューセッツ州の山奥に別荘があったのだが、そこは雪が積もって除雪もままならない状態。パパにタイヤどうしているのか聞いても「大丈夫!オールシーズン履いてるやろ?」と。オールシーズンで雪道問題なかったらスタッドレスの価値は?と反論しかけたがやめた。興味深いことに、このオールシーズンタイヤ崇拝主義は統計データにも表れているらしく、以下のウェブページの記事に面白いことが書いてあった。

2018年に北米ミシュランが米国のスノーベルトと呼ばれる中西部や北部(デトロイト、シカゴ、クリーブランドシンシナティなどのエリア)の豪雪地帯のユーザー1000人に行った調査結果が興味深い。調査によると「5人中3人が雪中ドライブでスリップを経験」しているが、「ウインタータイヤを装着するユーザーは5人に2人」と半数以下だ。

 ウインタータイヤを装着しない理由として67%が「オールシーズンタイヤを装着しているので必要ない」と回答。また53%は「4WD車に乗っていれば、スノータイヤは必要ない」と考えている。 米国でウインタータイヤの販売が圧倒的に少ない事情 - カー・アンド・ドライバーonline [CAR and DRIVER]

いや、スリップしてるんやったら冬タイヤ履かんかいっ!スリップ経験者の3人のうちの2人がウインタータイヤを装着したユーザーであったことを祈る。でないとその3人は今もノーマルタイヤでスリップし続けていることだろう。。

と言う具合に、すぐ思いつくだけでも3つ、ここが変だよポイントがあるアメリカ人。でもこれはあくまで日本人的感覚からの話で、アメリカ人からすると「ここが変だよ日本人」になってしまうのであろう。特に2つ目と3つ目は、「何か起こる前に準備をする日本人」と「何かが起こってから対処するアメリカ人」の国民性を良く表しているような気がする。

こんな感じで、大阪人にとっての海外生活の日常はツッコミの宝庫なのである。

 

学会ついでにスコットランドへ⑤ Skye島での夢のような時間2

山頂付近はものすごい風が吹くが、息をのむ景色が見られる。

Skye島の主な見どころとしてはQuirang、Old Man of Storr、Fairy Poolsが有名である(Skye島観光情報にはIsle of Skye, Scotland. Guide to Accommodation & Activitiesをお勧めする)。どこへ行ってもトレッキングをすることになるのだが、Quirangが一番ハードな道のりみたいだ。我々は寒い季節に行ったのと、疲れていたのもあってOld Man of Storrだけ行くことにした。

もしあまり時間がなくて、また体力にも自信がなければ往復2時間程度のこのトレッキングコースが一番魅力的だと思う。道路沿いには駐車場とトイレや土産物屋が入った施設があり、そこから登っていくことになる。

霧を被った岩からなる山頂を目指す。

見下ろせばSkyeブルーが広がる。

ふもとの方は快晴でも、登っているうちにみるみる天気が険しくなり、雨風に吹かれた。Skye島、いやハイランドを観光する時はアウトドア用のウェアで行くのを強く勧める。GoreTexの靴、フード付きの防水・防風ウェアがいいだろう。

規模は全然違うけど、スコットランド版「天橋立」。

テーブルみたいなところが山頂。風が強く、立っていると飛ばされそうになる。

単純に歩いている時間以上に、気候のせいでだいぶ体力が削られる。運が良ければ穏やかなトレッキングを楽しめるだろう。

初めての駐禁

紀伊国屋のすぐそばにあるBryant Parkで行われるクリスマスマーケット

ニューヨークは最低気温がマイナスになり始め、大阪や神戸では体験したことない冬が始まろうとしている。

街はすっかりクリスマスムードになって来て、マンハッタンでは各所に巨大ツリーが出てきたり、クリスマスマーケットが開催されたりしている。普段我々はロングアイランダー(Long Islandに住んでいる人々)なので余程の用がない限りマンハッタンへは行かないが今回は嫁がブロードウェイを一回くらいは観たいと言うので初めて車で行ってみた。

来年の1月からNY市はマンハッタンのメイン地区への車の乗り入れに対して課金することに決まったのだが、現時点では嬉しいことに日曜のマンハッタンは路駐が無料である。2人で電車で行くと往復40ドル弱かかるのでこれは大いに嬉しい。例え大渋滞であろうとも、我慢できる。しかし無料であるということは、駐車スポットを探す闘いは避けられない。ただでさえ狭い空間への縦列駐車は神経を使う上に、ブロードウェイやブライアントパークとかの繁華街を走る東西のストリートは両側に路駐だらけ且つ一方通行であり、スポットを見つけて駐車するのは結構ストレスフルなのである。最近は便利なアプリなんかもあるらしいが、知らなかったのでグルグルとストリートを巡回し、1時間くらいかけてようやく空きを見つけたのだった。

コツが分かればそう難しくないのだが、標識がややこしい。No standingとかNo parkingとか、Commercial vehicleがどうとか、何時から何時まで云々。「空いてる!」と思ったら消火栓があるスポットだったり(消火栓の周辺は駐車禁止)。

15時から開始のMJ(マイケル・ジャクソン)のミュージカル予定だったが、昼前には車を停められたのでぶらぶら散歩もして余裕を持って観劇することが出来た。

劇場の看板

チケットは言われるがまま、「Lottery」というサイトで抽選して当たった。MJは割と当選率が低いらしく、当たって相当喜んでいた。しかも席が通常$200くらいする一階真ん中だったので$50の抽選料はだいぶお得だったとのこと。

嫁は涙を流すくらい感動していたのだが、観劇はあまり私の性に合わないみたいで(何でいきなり歌い出すねん、とか思ってしまう)、まずまずだった。そもそも私にとってマイケルといえばマイケル・コルレオーネなのでジャクソンの方はそんなに興味がなかったのだ。曲も有名なやつは分かるが、ロックが好きなので「LZ(レッドツェッペリン)」とかじゃないとイマイチ盛り上がらない。

まあそんな感じで路駐したところに40分くらいかけて歩いて戻ったのだった。すると車の前に回った嫁が「うわ!駐禁貼られてる!」と言うので「ええってー、冗談は。」と思ってみたらありました。ご丁寧に挟まれた立派な駐禁チケットが。それも$115!

世の中で一番見たくないもの、駐禁チケット

どうやらその場所はタクシーが休憩のためにだけ使えるゾーンだったみたいで、一時間以内だけなら停めてもいい場所だったよう。そう書かれた看板も、10メートルくらい離れたところにあったので見落としましたとさ。

マンハッタンに車を停めたら、周りの標識を最低三回は確認することをお勧めします。